カブトボーグから見る現代社会 〜ボーグバトルで「今」がわかる〜

『人造昆虫カブトボーグ VxV』
テレビアニメ作品。放映期間2006年10月5日から翌年10月11日。全五十二話。
ジャンルはコロコロコミック的なスポコンのバットやグローブを玩具に持ち替えた児童向け熱血アニメ。
しかし、そこに既存のアニメのお約束を破壊するようなストーリー構成にギャグやパロディを散りばめ、対象である児童だけでなく幅広い層に受け入れられる(むしろ児童以外がメインかもしれない)。
主人公・リュウセイは10歳の少年。世界最強のボーグバトラーを目指し、1話ごとに現れる敵をボーグバトルで蹴散らせて行く。
ボーグマシンとは昆虫を模して戦車を融合させた走行型の玩具であり、これを円形のフィールドの中で走らせ対戦相手とぶつけ合う。勝負はどちらかのボーグが動かなくなるかフィールドの外に弾き飛ばされることで決着がつく。
ヒットする作品とは現代人の心に共鳴する「今」が鋭く反映されているのが常であり、一見面白さだけを追求したコメディ作品に思えるこのアニメも例外ではない。
カブトボーグのスタッフがこのアニメを通じて視聴者に伝えたかったことは何か? このアニメに反映されている「今」とはいったい何か? それはこのアニメの不可解な部分を解きほぐすことで見えてくる。


■なぜ主人公の機体に特別な意味が込められていないのか?■
リュウセイは『トムキャットレットイットビートル』と名づけられたボーグマシンを操って敵と戦っている。主人公の愛機となれば重要な役割を担っているはずだが、このアニメが他と一線を画すのはその扱いの軽さだ。
リュウセイは第一話から当然のようにこの機体を所持しており、不思議なことにこの機体との出会いは一切描かれない。
例えば『マジンガーZ』を取っても『機動戦士ガンダム』を取っても主人公と愛機との出会いはきわめて濃厚に、運命的に描かれる。
しかし、カブトボーグにおいてのそれは省かれる。それどころか機体の持つ背景さえも薄い。
『亡き父の遺した破壊神』『連邦軍の最新兵器』、これに対応する部分がトムキャットレットイットビートルにはまるでない。
それは現代社会において「道具」が失効してしまっていることの反映だ。今私達が生きている社会は「技術」や「教養」が形骸化してしまっている。
近代において他人との差をつけるはずだったこれらの「道具」が、平坦化しフラットになって上下がつけられなくなってしまったことを現している。
だからリュウセイのトムキャットレットイットビートルには何ら特別な背景はないし、ズバ抜けた性能も持っていない。
世界大会編になり自らの機体が世界基準から外れていることを知ると、あっさりと近くのボーグショップで世界基準のボーグマシンを手に入れてしまえる。
そして、その際の選択理由は前機(トムキャットレットイットビートル)と見た目が似ているからだ。
「見た目」、そう現代が「見た目主義社会」であることがここに反映されている。
道具に何ら価値がなく、見た目が重視される社会。
カブトボーグのボーグマシンにはそのような意味が込められている。


リュウセイたちはなぜ意味のない素振りをするのか?■
少年漫画で特訓が描かれなくなって久しい。主人公は元から特別な才能を有しており、それが開花するキッカケが描かれるだけだ。
だが、カブトボーグでは一応訓練と思わしき部分はある。しかし、極めて歪だ。
それは「素振り」と称されるもので、ボーグマシンを手に持ち、その手を前方斜め上空に振り上げるのだ。そして、それを何十回も、何百回も繰り返す。
この訓練により、何がどう改善されどう強くなったかが描かれることはない。無意味に思われるその行動をボーガーたちはひたすら続ける。
これは私達の社会においての努力と同じものである。
例えば受験勉強を例に挙げよう。
受験勉強において「なぜ勉強をするのか?」という疑問は無視される。それをやっていれば良い結果が得られるので、とりあえずやるというスタイルが選択される。そして、大学に合格した瞬間に重ねてきた努力は捨てられてしまう。大学生活においても実生活においてもほとんど役に立たないからだ。
カブトボーグはこのように努力が手続化し、手続きが終わると努力の内容が一気に無効化してしまうことを「素振り」で描いている。
意味はないけれどもそれが目標達成への手続きなので素振りをし、勝利した瞬間に忘れられてしまうのだ。


■ボーグバトルの前にかけられるコールとは一体何なのか?■
対戦相手同士が円形のフィールドで対峙し、いざボーグバトルをする寸前「コール」と呼ばれる「チャージ3回、フリーエントリー、ノーオプションバトル」という掛け声をお互いにするのである。
これは何やらボーグバトル上でのルールであり、それを確認し合っているようだが、その説明がされることはシリーズを通して一度もない。
登場人物はこの「コール」に何ら疑問点を抱かず受け入れているのである。
それは「誰かが作ったルールに誰も疑問を抱かない社会」を反映している。
それがルールであるからという理由で、誰が何のために作ったのかという視点がなくなってしまっている。そして、そんな状況を当たり前のように受け入れている。


■勝負が機体の性能や技の強さではなく精神攻撃で決まるのは何故か?■
上述しましたがカブトボーグにおいて機体の性能差はほとんどありません。
トムキャットレットイットビートルは単なる市販されているボーグマシンの一つにすぎず、必殺技は一応持っていますがウルトラマンスペシウム光線仮面ライダーのライダーキックのように、それ自体で相手を圧倒し撃破してしまうようなものではないです。
では、何が決め手となるかというと「精神攻撃」とファンが呼称するもので決着がつきます。
ボーグバトル中にリュウセイが対戦相手に向かって相手がダメージを受けるような文言を叫び、それによって対戦相手はひるみ敗れてしまうのです。
例えば高齢な対戦相手に向かい「無理すんな爺さん! 先のことを考えると不安を覚える年なんだ! だけど子供の俺はどこまで行くかの希望しかない!」と言い放ち、また別の相手には「僕達が大きくなっても年金払いませんよ!」と叫び、勝利します。
これは道具が失効した世界で、何によって差ができて勝負が決まるかの鍵が、コミュニケーションであることを現しています。
道具が失効し、努力が手続き化された現在、勝負の決め手になるのはコミュニケーション能力なのです。
社会が人との関わり合いで成り立っている以上、社会に受け入れられるかはコミュニケーションで決まります。スクールカースト問題は露骨にコミュニケーション能力の有無で上位・下位が決定してしまいますし、「孤独」や「モテ・非モテ」の問題もコミュニケーションに端を発しています。就職における面接も要はコミュニケーション能力を見ており、ポジションはコミュニケーション能力でどう立ち回るかで決まります。チャンスが掴めるかどうかはコミュニケーション能力次第です。


■そんな世の中でどう生きるか?■
カブトボーグには愛機と主人公との出会いもなければ、リュウセイの過去もありません。入る回想シーンはギャグであり真実ではありません。
それはボーグバトルについても同様で、ボーグ協会の使者が語るボーグバトルの歴史はコロコロと内容が変わり、矛盾が入り乱れています。
これは言うまでもなく「歴史」や「教養」が失効した社会を描いています。
そして、そんなものがなくても楽しくやっていけるという現代の若者達を描いている。


カブトボーグは視聴する子供達に向けて、現代社会の状況を切り取り、反映させるだけでなくそこでどうやって生きていくかの提示もしています。
それはそのままリュウセイの生き方に現れています。
ルールに乗っかり、仲間を作り、何でもいいから目標に向かって一緒に走っていくこと。
つまりはLet'sカブトボーグ