なぜ漫画実写版は増えたのか?

 今、映像メディアにおいて最も先鋭的な表現が漫画実写版であることは誰もが認める事実だ(あの辻仁成も「そういえば、漫画実写版というものが流行っている」と書くほど!)。

 漫画・アニメ・ゲームを原作とした映像作品は毎月何本も公開されている。ブームと言っていい。

 そのブームを印象付けたのは2004年。『キューティーハニー』『キャシャーン』『デビルマン』と漫画を原作とした大作映画が次々と封切られ、その出来も含めて話題になった。ちなみにそれぞれの監督はその後、キューティーハニー庵野秀明興行収入の失敗から実写の新作を撮ることが困難になり、キャシャーン紀里谷和明は妻の宇多田ヒカルと離婚、デビルマン那須博之映画秘宝の「今年のこいつ死ねばいいのにランキング」でぶっち切りの一位を取った翌年に本当に死亡し、呪いの存在を実証してしまった。三人とも波乱万丈な人生を送っている。漫画実写版とはそれほどドラマチックでエッジな人間が撮る題材なのだ。

 では、何故これほどまでに漫画実写版が増えたのだろうか? 一説には、CG技術の発達により映像の再現が可能になったからであるとか、漫画を見て育った世代が実作の立場になったからだとも言われている。しかし、そこには大きな見落としがある。私たちは何故、漫画実写版を受け入れるようになったんだろう?

 ブームになる以前、漫画実写版は長らく虐げられてきた。映画ファンにも漫画ファンにも馬鹿にされてきた。
「虚構(=漫画)」よりも「現実(=実写)」を上に見る映画ファンには漫画実写版は現実よりも劣る存在であり、「現実(=実写)」よりも「虚構(=漫画)」を上に見る漫画ファンにとっては虚構より劣る存在であった。虚構を現実に映し変える漫画実写版だからこそ起きた悲劇だ。

 しかし、96年に大きな地殻変動が起きる。それまで「現実>虚構」だった多くの人間も、あえて「虚構>現実」を選択していたオタクにも、どちらの意識にもフラット化が起こり「現実≧虚構」(ないしは「虚構≧現実」)となる。

 切欠は言うまでもなく地下鉄サリン事件で、真顔でハルマゲドンを目指すあまりにも現実離れした事件に、現実と虚構に差異はないんだと人々に知らしめた(世界では少し遅れて911が切欠となる)。
その翌年に公開された劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』に実写パートがあるのは偶然ではない。以後、アニメ内で実写を取り入れる事例が多くなる。

 このパラダイムシフトによって、それまで決して作品として評価されることのなかった漫画実写版というジャンルが注目されることになる。

 フラット化によってオタク側にも映画ファン側にも「今どきアニメ(映画)か……」とジャンルのエッジ感が急速に失われていったが、虚構と現実をどちらも包括する漫画実写版だけが、このフラット化の現状に耐えうる唯一の表現として浮上してきたのだ。

 つまり、この漫画実写版ブームとは社会が、私たちが要請したことである。ここまで読んだあなたならお気づきだろう。前述した実写『デビルマン』が漫画実写版というジャンルの運命を綺麗に擦っていることを。人間と悪魔の狭間で悩むデビルマンとは漫画実写版そのものだ。那須監督は映画ファンの呪いによって死んでしまった。生贄であり、名誉の戦死である。漫画実写版とは私たち人間が生んだ子どもなんだよ!

 ハッピーバースデー、漫画実写版。