実写版「ひぐらしのなく頃に」が実現させた美少女ゲーム的学園ハーレム世界


映画「ひぐらしのなく頃に 誓」公式サイト


 4月18日に「ひぐらしのなく頃に 誓」という映画が封切られました。同人ゲーム「ひぐらしのなく頃に」は、原作となったゲームは学園ものの美少女ゲームと思わせて、次第に謎と恐怖の非日常に侵食されていくという衝撃の展開が話題になりました。
 この映画はその実写化第二段で、前作の実写化映画で残された謎が解き明かされていくという内容になっているそうです。人気ゲームの実写化ということで前作は非常に注目を集めました。


amazonレビューより。

ディスクを壁に投げつけたくなりました。 あと 「嘘だ!」のシーンは絶対ギャグだろ…

これのどこが面白いんだ? ただの気持ち悪いB級映画 漫画は面白かったのに


 一つの映画としては賛否両論あるようですが、漫画実写版という観点から見ると非常に画期的な作品だと思います。それは学園もののゲームを映像化する際に付きまとっていた、一つの難題に解決策をしめしたからです。

 美少女ゲーム内の学園世界とは非常に歪なものになっています。それは登場人物を見れば一目瞭然。主要となるキャラが主人公を含めて男子は二、三人なのに対し、女子は5、6人〜∞と男女比が著しい偏りを見せているのです。普通、学校はクラス分け等によって常に男女比のバランスが取られるので、これは明らかにおかしい。
 さらに美少女ゲームという構造がこの歪さを拍車にかけます。ゲーム内において美少女は、画面を覆うかのようなバストアップで登場し、主人公と会話する。そして、美少女と美少女のバストアップが繋がれて物語は進行していくのです。そこでは他の生徒は省かれ、隠されます。これにより、あたかも学園内には主人公と美少女キャラしかいないかのような「ハーレム」という異常な錯覚をプレイヤーに引き起こすのです。

 しかし、これを映像化するとなるとある困難が生まれます。映像ではバストアップで繋ぐことができないので、男女比の偏りがなく、席も均等に配置されたクラスをきちんと映さなければいけません。主要キャラ以外の他の男子を省くことができない。

 アニメではこの問題に、例えばこう対処します。一番重要となるヒロインを主人公の隣の席に配置する。そして、隣り合った二人の席のアップにすることで、関係ない男子を省く。または、美少女キャラを派手な赤や青といった色の髪にし、必要ない女子や男子を地味にすることで画面内の差別化を図り、美少女だけは目立たせる。あるいは全く動かさないことによって、背景にする。

 しかし、実写では席を隣り合わせるのはともかく、他の二つは全くもって効果を持ちません。髪の色を派手な原色にすることは無理だし、全く動かないことは不自然です。クラスを映せば地味で必要ない男子がたくさん入ってしまい、あの美少女ゲーム特有の「ハーレム」といった感覚は失われてしまいます。

 美少女ゲームのような男女比の偏った学園世界をどうやって実写で表現するか? 長らく難題とされてきたこの問題に、実写版「ひぐらしのなく頃に」はコロンブスの卵とでも言うべき答えを出しました。その答えとは?



 上の画像を見てください。これは映画冒頭、転校してきた主人公が教室内を見渡しているシーンです。何か違和感がありませんか? そう、女子の前後か左右に配置されるべき男子がいません。そうなのです。実写版「ひぐらしのなく頃に」が出した答えとは「画面内に美少女しか出さない」というものです。



 見てください。こちらはクラス内でヒロインが主人公に話しかけるシーン。後方に写るべき男子たちを見事にヒロイン二人がブロックしています! 背後には女子しか映っていません。



 こちらは教室で弁当を食べているシーンです。見てください! こんなに広く教室を映しているのに男子が一人も入っていません! 画面内には計10人の生徒がいますが全員女子です! 画面内に美少女ゲームの学園世界を見事に再現しています。

 どうでしょうか? このように実写版「ひぐらしのなく頃に」は漫画実写版という映像表現において非常に革命的で重要な作品なのです。漫画実写版という表現の歴史を振り返る際に、絶対に外してはいけない後世に語り継がれるべき傑作です!



参考:ひぐらしのなく頃に:映画版第2弾 原作・竜騎士07さん語る 「悲劇の食い止め方」伝えたい

カブトボーグから見る現代社会 〜ボーグバトルで「今」がわかる〜

『人造昆虫カブトボーグ VxV』
テレビアニメ作品。放映期間2006年10月5日から翌年10月11日。全五十二話。
ジャンルはコロコロコミック的なスポコンのバットやグローブを玩具に持ち替えた児童向け熱血アニメ。
しかし、そこに既存のアニメのお約束を破壊するようなストーリー構成にギャグやパロディを散りばめ、対象である児童だけでなく幅広い層に受け入れられる(むしろ児童以外がメインかもしれない)。
主人公・リュウセイは10歳の少年。世界最強のボーグバトラーを目指し、1話ごとに現れる敵をボーグバトルで蹴散らせて行く。
ボーグマシンとは昆虫を模して戦車を融合させた走行型の玩具であり、これを円形のフィールドの中で走らせ対戦相手とぶつけ合う。勝負はどちらかのボーグが動かなくなるかフィールドの外に弾き飛ばされることで決着がつく。
ヒットする作品とは現代人の心に共鳴する「今」が鋭く反映されているのが常であり、一見面白さだけを追求したコメディ作品に思えるこのアニメも例外ではない。
カブトボーグのスタッフがこのアニメを通じて視聴者に伝えたかったことは何か? このアニメに反映されている「今」とはいったい何か? それはこのアニメの不可解な部分を解きほぐすことで見えてくる。


■なぜ主人公の機体に特別な意味が込められていないのか?■
リュウセイは『トムキャットレットイットビートル』と名づけられたボーグマシンを操って敵と戦っている。主人公の愛機となれば重要な役割を担っているはずだが、このアニメが他と一線を画すのはその扱いの軽さだ。
リュウセイは第一話から当然のようにこの機体を所持しており、不思議なことにこの機体との出会いは一切描かれない。
例えば『マジンガーZ』を取っても『機動戦士ガンダム』を取っても主人公と愛機との出会いはきわめて濃厚に、運命的に描かれる。
しかし、カブトボーグにおいてのそれは省かれる。それどころか機体の持つ背景さえも薄い。
『亡き父の遺した破壊神』『連邦軍の最新兵器』、これに対応する部分がトムキャットレットイットビートルにはまるでない。
それは現代社会において「道具」が失効してしまっていることの反映だ。今私達が生きている社会は「技術」や「教養」が形骸化してしまっている。
近代において他人との差をつけるはずだったこれらの「道具」が、平坦化しフラットになって上下がつけられなくなってしまったことを現している。
だからリュウセイのトムキャットレットイットビートルには何ら特別な背景はないし、ズバ抜けた性能も持っていない。
世界大会編になり自らの機体が世界基準から外れていることを知ると、あっさりと近くのボーグショップで世界基準のボーグマシンを手に入れてしまえる。
そして、その際の選択理由は前機(トムキャットレットイットビートル)と見た目が似ているからだ。
「見た目」、そう現代が「見た目主義社会」であることがここに反映されている。
道具に何ら価値がなく、見た目が重視される社会。
カブトボーグのボーグマシンにはそのような意味が込められている。


リュウセイたちはなぜ意味のない素振りをするのか?■
少年漫画で特訓が描かれなくなって久しい。主人公は元から特別な才能を有しており、それが開花するキッカケが描かれるだけだ。
だが、カブトボーグでは一応訓練と思わしき部分はある。しかし、極めて歪だ。
それは「素振り」と称されるもので、ボーグマシンを手に持ち、その手を前方斜め上空に振り上げるのだ。そして、それを何十回も、何百回も繰り返す。
この訓練により、何がどう改善されどう強くなったかが描かれることはない。無意味に思われるその行動をボーガーたちはひたすら続ける。
これは私達の社会においての努力と同じものである。
例えば受験勉強を例に挙げよう。
受験勉強において「なぜ勉強をするのか?」という疑問は無視される。それをやっていれば良い結果が得られるので、とりあえずやるというスタイルが選択される。そして、大学に合格した瞬間に重ねてきた努力は捨てられてしまう。大学生活においても実生活においてもほとんど役に立たないからだ。
カブトボーグはこのように努力が手続化し、手続きが終わると努力の内容が一気に無効化してしまうことを「素振り」で描いている。
意味はないけれどもそれが目標達成への手続きなので素振りをし、勝利した瞬間に忘れられてしまうのだ。


■ボーグバトルの前にかけられるコールとは一体何なのか?■
対戦相手同士が円形のフィールドで対峙し、いざボーグバトルをする寸前「コール」と呼ばれる「チャージ3回、フリーエントリー、ノーオプションバトル」という掛け声をお互いにするのである。
これは何やらボーグバトル上でのルールであり、それを確認し合っているようだが、その説明がされることはシリーズを通して一度もない。
登場人物はこの「コール」に何ら疑問点を抱かず受け入れているのである。
それは「誰かが作ったルールに誰も疑問を抱かない社会」を反映している。
それがルールであるからという理由で、誰が何のために作ったのかという視点がなくなってしまっている。そして、そんな状況を当たり前のように受け入れている。


■勝負が機体の性能や技の強さではなく精神攻撃で決まるのは何故か?■
上述しましたがカブトボーグにおいて機体の性能差はほとんどありません。
トムキャットレットイットビートルは単なる市販されているボーグマシンの一つにすぎず、必殺技は一応持っていますがウルトラマンスペシウム光線仮面ライダーのライダーキックのように、それ自体で相手を圧倒し撃破してしまうようなものではないです。
では、何が決め手となるかというと「精神攻撃」とファンが呼称するもので決着がつきます。
ボーグバトル中にリュウセイが対戦相手に向かって相手がダメージを受けるような文言を叫び、それによって対戦相手はひるみ敗れてしまうのです。
例えば高齢な対戦相手に向かい「無理すんな爺さん! 先のことを考えると不安を覚える年なんだ! だけど子供の俺はどこまで行くかの希望しかない!」と言い放ち、また別の相手には「僕達が大きくなっても年金払いませんよ!」と叫び、勝利します。
これは道具が失効した世界で、何によって差ができて勝負が決まるかの鍵が、コミュニケーションであることを現しています。
道具が失効し、努力が手続き化された現在、勝負の決め手になるのはコミュニケーション能力なのです。
社会が人との関わり合いで成り立っている以上、社会に受け入れられるかはコミュニケーションで決まります。スクールカースト問題は露骨にコミュニケーション能力の有無で上位・下位が決定してしまいますし、「孤独」や「モテ・非モテ」の問題もコミュニケーションに端を発しています。就職における面接も要はコミュニケーション能力を見ており、ポジションはコミュニケーション能力でどう立ち回るかで決まります。チャンスが掴めるかどうかはコミュニケーション能力次第です。


■そんな世の中でどう生きるか?■
カブトボーグには愛機と主人公との出会いもなければ、リュウセイの過去もありません。入る回想シーンはギャグであり真実ではありません。
それはボーグバトルについても同様で、ボーグ協会の使者が語るボーグバトルの歴史はコロコロと内容が変わり、矛盾が入り乱れています。
これは言うまでもなく「歴史」や「教養」が失効した社会を描いています。
そして、そんなものがなくても楽しくやっていけるという現代の若者達を描いている。


カブトボーグは視聴する子供達に向けて、現代社会の状況を切り取り、反映させるだけでなくそこでどうやって生きていくかの提示もしています。
それはそのままリュウセイの生き方に現れています。
ルールに乗っかり、仲間を作り、何でもいいから目標に向かって一緒に走っていくこと。
つまりはLet'sカブトボーグ

東京カワイイ★TVが面白かった。

東京カワイイ★TV
http://www.nhk.or.jp/kawaii/

 最近存在を知ったテレビ番組。どうやら、ギャル文化を中心にファッションを紹介する番組らしいです。最近は外交の一環として「カワイイ大使」が任命、派遣されたりとファッションへの注目が高まっています。早速、録画して視聴してみました。4月11日放映。
 番組内容はもう全編がはっきり言って異世界! 全部ワケがわかりません!
 いきなり「イギリスがギャル文化を輸入」と、ギャルの格好をしたイギリス人の女性が登場。ネットで日本好きの若者を集めて、オフ会をしているらしい。そこには一昔前に話題になった顔を真っ黒にする「ヤマンバ」もいて、テロップで「アレックス君」と出る。男かよ!
 さらに今こうやってギャル文化に世界が注目していると、東京カワイイ★TVが香港で現地語に訳されて放映されていることが紹介される。ロシアからも放映オファーが来ているらしい。日本のファッションは共産圏からも注目されている。金正男がギャル男の格好で総書記に即位する日も近いです。
 他にも服飾専門学校に留学している黒人ギャルだったり(もう黒系だとか白系だとか言ってる場合じゃない)、人生に絶望したアメリカの退役軍人が日本に来てギャル文化に救いを見出したり(意味がわからない!)、紹介された店の店員の名前が「Takuya Angel」だったり(天使降臨!)、外務省の調査員が店員に「姫が姫であるために大切なことは?」と聞いていたり(21世紀の日本でこんな言葉が聞けるとは!)と、もうすごかった。
 次回予告で流されるナレーションは「今、ママモデル、通称"ママモ"が急増中!」だったり、「今、ゴルフをやるギャル、通称"ギャルファー"が急増中!」だったり。カリスマ・ママモやカリスマ・ギャルファーにインタビューするらしい。セックス・ピストルズが「勝手にしやがれ!」と叫ぶまでもなく好き勝手にやっている。勝手すぎるよ!
 番組に出ていた服飾専門学校には日本好きの外国人がもう何十人も留学しているらしい。前に代アニが経営難に陥っているとニュースになったりしていたけど、こういったファッションやアニメなどの専門学校は留学に力を入れるのも、生き残りの道としてアリなのかもしれない。
 代々木駅にコスプレをした外国人が毎朝大量下車する光景が、近い将来実現するかも? 見たい!

BRUTUS (ブルータス) 2009年 5/1号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2009年 5/1号 [雑誌]


参考:
カワイイ大使:「萌える日本」発信します
日本政府が本気を出したようです
秋葉原のオタク文化だけでなく、原宿的ファッションも観光資源&輸出資源になっているらしい
代々木アニメーション学院はそれからどうなったのか

なぜ漫画実写版は増えたのか?

 今、映像メディアにおいて最も先鋭的な表現が漫画実写版であることは誰もが認める事実だ(あの辻仁成も「そういえば、漫画実写版というものが流行っている」と書くほど!)。

 漫画・アニメ・ゲームを原作とした映像作品は毎月何本も公開されている。ブームと言っていい。

 そのブームを印象付けたのは2004年。『キューティーハニー』『キャシャーン』『デビルマン』と漫画を原作とした大作映画が次々と封切られ、その出来も含めて話題になった。ちなみにそれぞれの監督はその後、キューティーハニー庵野秀明興行収入の失敗から実写の新作を撮ることが困難になり、キャシャーン紀里谷和明は妻の宇多田ヒカルと離婚、デビルマン那須博之映画秘宝の「今年のこいつ死ねばいいのにランキング」でぶっち切りの一位を取った翌年に本当に死亡し、呪いの存在を実証してしまった。三人とも波乱万丈な人生を送っている。漫画実写版とはそれほどドラマチックでエッジな人間が撮る題材なのだ。

 では、何故これほどまでに漫画実写版が増えたのだろうか? 一説には、CG技術の発達により映像の再現が可能になったからであるとか、漫画を見て育った世代が実作の立場になったからだとも言われている。しかし、そこには大きな見落としがある。私たちは何故、漫画実写版を受け入れるようになったんだろう?

 ブームになる以前、漫画実写版は長らく虐げられてきた。映画ファンにも漫画ファンにも馬鹿にされてきた。
「虚構(=漫画)」よりも「現実(=実写)」を上に見る映画ファンには漫画実写版は現実よりも劣る存在であり、「現実(=実写)」よりも「虚構(=漫画)」を上に見る漫画ファンにとっては虚構より劣る存在であった。虚構を現実に映し変える漫画実写版だからこそ起きた悲劇だ。

 しかし、96年に大きな地殻変動が起きる。それまで「現実>虚構」だった多くの人間も、あえて「虚構>現実」を選択していたオタクにも、どちらの意識にもフラット化が起こり「現実≧虚構」(ないしは「虚構≧現実」)となる。

 切欠は言うまでもなく地下鉄サリン事件で、真顔でハルマゲドンを目指すあまりにも現実離れした事件に、現実と虚構に差異はないんだと人々に知らしめた(世界では少し遅れて911が切欠となる)。
その翌年に公開された劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』に実写パートがあるのは偶然ではない。以後、アニメ内で実写を取り入れる事例が多くなる。

 このパラダイムシフトによって、それまで決して作品として評価されることのなかった漫画実写版というジャンルが注目されることになる。

 フラット化によってオタク側にも映画ファン側にも「今どきアニメ(映画)か……」とジャンルのエッジ感が急速に失われていったが、虚構と現実をどちらも包括する漫画実写版だけが、このフラット化の現状に耐えうる唯一の表現として浮上してきたのだ。

 つまり、この漫画実写版ブームとは社会が、私たちが要請したことである。ここまで読んだあなたならお気づきだろう。前述した実写『デビルマン』が漫画実写版というジャンルの運命を綺麗に擦っていることを。人間と悪魔の狭間で悩むデビルマンとは漫画実写版そのものだ。那須監督は映画ファンの呪いによって死んでしまった。生贄であり、名誉の戦死である。漫画実写版とは私たち人間が生んだ子どもなんだよ!

 ハッピーバースデー、漫画実写版。

「ロウ・クオリティ」の時代

今、コンテンツ産業が大きな地殻変動に見舞われている。
出版は老舗の雑誌が次々と廃刊し、テレビは視聴率低下によって広告離れが起き、音楽は久しくミリオンが生まれていない。
一方、ネットの世界に目を向けてみるとニコ動、youtube、pixiv、twitter等々、様々なサイトが盛り上がりを見せ、大きなうねりを生み出そうとしている。テレビ等の既存メディアとは対照的だ。


だがしかし、言ってしまえばネットのコンテンツはどれもこれも素人の提供する予算もクオリティも低い代物である。
長らく映画ファンの間では邦画がつまらない理由は「ハリウッドに比べて予算が少ないから」と言われてきた。
何故、既存メディアの提供する潤沢な予算で作られたプロのコンテンツよりも、ネットのコンテンツが支持されるのだろうか。
ネットのコンテンツの中には、企業制作の予算のかけられたコンテンツも存在するが、それらも不思議と支持されていない。何十分の一、何百分の一の予算で作られたyoutubeの動画の方が支持される。


この現象を紐解くために、低調な既存メディア内において、根強く支持されるコンテンツに目を向けてみよう。
そうすると人気バラエティや人気お笑い芸人に対して、「脱力」だとか「ゆるい」だとかのキーワードが頻出していることに気づく。
二つとも、元はマイナスな意味を持っていた。「脱力」は「落胆」と同義だったし、「ゆるい」の場合は、例えば「ゆるキャラ」は当初は嘲りの目線が多分に含まれていた。
それがここにきて、プラスの意味に転じているのだ。


ここでは「脱力」「ゆるい」を総じて『ロウ』と呼称しよう。
今、世の中で支持されているものはそのほとんどが『ロウ』なものだ。
お笑いのネタ番組はキッチリと構成されたコントを見せるものから、数秒の一発ギャグを次々と見せるという『ロウ』なものに変化したし、別の潮流の『すべらない話』も人がいてただ面白い話をするだけ、という『ロウ』なものだと言える。
深夜バラエティがゴールデンに行って失敗するのは、『ロウ』なものから予算のかけられた『ハイ』なものになってしまったから、と言える。


そして、『ロウ』なものが何より一番溢れているのは、そう、インターネットの世界だ。
素人の一個人がお金をかけずに作った動画なんて、「ロウ」としか言いようがない。
テレビよりもネットが支持される理由がここにある。


では、何故『ロウ』が人々の心を惹きつけるのだろうか。
その答えは、コンテンツ産業の中でいち早く不況に見舞われていた出版業界を見ればわかる。


出版業界では90年代半ばから「出版不況」と言われるようになったが、既に80年代には「活字離れ」と言われる現象が起きている。
「活字離れ」という状況下で、それでも数百万部売れるベストセラーは、「文章力がない」「素人が書いたようだ」と書評家が酷評するという奇妙な現象が起きていた。
ここでも『ロウ』が支持されるという状況が立ち現れたのだ。


評論家の中島梓は著書『ベストセラーの構造』にて、「私にも書けるかもしれない、というアマチュアの親しみやすさ」が支持される要因だ、と分析した。
四半世紀経過した現在、まったく同じ分析が下されたネットのヒットコンテンツがある。『初音ミク』だ。


ネットには『ロウ』が溢れている。『ロウ』の「アマチュアの親しみやすさ」が人々を惹き付け、「私にもできるかもしれない」と思わせる。その思いは初音ミク等のソフトウェアがサポートし、発表する場所はネットが与えてくれる。そうやって生まれたコンテンツを見た人がまた同じ思いに駆られ……ネットはそうやってぐるぐると回り続ける。


地デジはおそらく失敗するだろう。何故なら双方向を視聴者からのリアクションしか想定していない。ネットの双方向は、互いに作りあい刺激しあうことだ。
一億総クリエイター社会では、受信機は同時に送信機ではなくてはいけないし、コンテンツを見る場所は同時にコンテンツを発表できる場所でなくてはならないのだ。


参考:ネット文化が読者投稿を失くさせる?(旧題:ネット文化が編集者を失業させる?)

http://d.hatena.ne.jp/enjokosai/20080212/1202818678

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